Episode.1

これまでのキャリア
指導が変わったターニングポイント
iida
吉永さん、本日はよろしくお願いします!
まずはこれまでのキャリアについて教えていただけますでしょうか。
はい、よろしくお願いします。
私は福岡県北九州市の出身で、福岡大学を1990年に卒業しました。大学の最終年に少し指導者的な役割を与えてもらえて、教員への夢もあったのですが、サッカーの指導者としての想いも強く、そのまま東京の三菱養和へサッカー専門の指導者として就職しました。

その後はJリーグのクラブや高体連含めて、トップチームからサッカースクールの子供たちまで、女子選手の指導以外はほぼ全てのカテゴリーを経験させていただきました。

現在はアルビレックス新潟シンガポールで仕事をしています。
吉永さん
これまでの様々なご経験の中で、指導に対する捉え方が変わったタイミングやターニングポイントなどはありましたか?
最初は指導者になったということで、やはり「教えなきゃ」という思いが自分の中で強くありました。
まずは自分が勉強しないと教えられないので、当時は今ほど情報がない中で、色々なものを読んだり、人の指導を見たりと、多くのことを吸収しようとしていましたね。

もちろんメリットとしては、自分で何か教えるための材料を集められたという点では良かったと思います。 ただそれは、今思えば、おそらく選手たちにとってはおしつけでしかなかったかな、と。

本当に選手たちが求めているものや、選手たちがなりたいものに近づくための指導やサポートができていたかというと、そうではない部分もありました。

そういった葛藤を得て、やはり選手たちがどうあるべきか、どう成長していくべきか。

選手たちの目標や夢というものをしっかり共有した上で進めているか?というところを考えるようになって、そこからですかね。指導も変わってきたのかなと思います。
その目線が大切だということに気づくきっかけは何かあったのですか?
最初に入った三菱養和のグラウンドで見たものですよね。
当時では少なかったクラブチームに入り、そこでは幼稚園のスクール、ユースチームなどがあって、ピラミッド形になっているクラブで指導できたのが良かったのだと思います。
なぜなら、例えば自分は小学生のカテゴリーを指導していたとしたら、その時期だけの指導をするのと、そのカテゴリーを卒業した選手たちがまたそのすぐ隣のコートで練習をしていて、成長していく姿を横で見れているという視点は違いますよね。
やはり、自分が指導した選手が翌年、カテゴリーが上がった時にどうなるかはすごく気になりました。それを知れる環境に恵まれたのが良かったのだと思います。
自分のところでは良かったけれど、次に進んだ時に評価されない、成長できないということであれば、それは自分の指導に問題があったのだなという振り返りにもなりました。
次で成長していくための土台を作ってあげられるか、ということですね。
そうです。次に上がった時になかなか成長できずにいたら、それはその前段階の私の時に、もっと伝えるべきことがあったんじゃないかって。ベースをちゃんと作り、その上で次に送り出す。
指導した選手たちの、その後の追跡を始めた時に、やはりそれぞれの年代、それぞれのカテゴリーで大事なことがあると。特に三菱養和の時代にはそれをすごく感じさせられました。
各カテゴリーで優先すべきこと、大切にすべきこととは何でしょうか。
ごく普通のことです。
例えば「楽しさ」一つとっても、子供たちとプロではそれぞれ楽しみ方が違うし、楽しいと感じる部分が違いますよね。プロであれば当然、勝つことや、試合に出ることなどが競技的に重要ですが、子供たちにとっては仲間と遊ぶ、友達が増えることなど、そういったところに楽しさを感じていたりする。そうなるとトレーニングの仕方も当然そこに合った形でやっていく必要があります。

小さいうちは、まずボールをたくさん触ろうとか、ボールが自由に扱えるようになったらもっと楽しいよね、などと伝えながら、その中で競争することが楽しいと思える子供たちが、次の競技的なスポーツに入っていく。そこに合わないと感じる子供たちは違うサッカーチームに進んだりすることもあるわけで。それは自然の流れとしてあって良いと思いますし、色々な環境があるからこそ、サッカー人口が増えていくことにも繋がります。
ただそれを一括りにして、その年代だけの結果を一番に求めていくと、また違う要素が入ってくる。それはもう指導者の思惑でしかない。
技術を身に付ける一番良い時期なので、そういう部分に主眼を置いてやれるか。これは日本サッカー協会でも発信し続けていますが、なかなか浸透しないと感じたりもします。
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